2008/08/05

第76号

<コンテンツ>
今年秋からの金融危機は、
フィンランドの基礎教育システムを研究
フィンランド教育の研究(社員教育の視点)
フィンランド国語教育=児童生徒の評価方法
解説・労働契約法:労働契約の原則(第3条)


かんぽの宿:偽装請負の公然

¶今年秋からの金融危機は、
今より一層の物価上昇と賃金引下げを招くこととなる。賃金引下げの理由や手続きをめぐって、個別企業との個別労働者の間では、トラブルが誘発される社会状況を生み出すこととなる。銀行の個別企業への融資が激減されている中で、従来の金銭解決というわけにはいかなくなって来た。
最低賃金をめぐる動きは、数年間で800円に近づき、1,000円を目指すことは間違いのない状況、労働市場が大きな変化を起こすことは間違いない。

最近の社会状況は、「泣き寝入りをすれば損をする」との契約思考が定着して来た現象に見られるように、解雇・条件変更の理由や手続きをめぐって、労働者が勉強していることも間違いない。解雇事件になれば、組合が介入すると正社員400万円、パート100万円との、ざっくりとした相場に変わりはない。紛争調整委員会などでは、対組合相場の半額程度が現在の相場であるようだが、労働者側の代理人や労働審判制度を背景にして、その額はセリ上がりつつある。とりわけ、労働集約型産業においては、労働力の仕入れ(採用・条件変更・退職)に際して、事件が多発しており、労働組合、紛争調整委員会に持ち込まれる割合が、この春から急増している。

そういった事件が発生したとき、会社側が法律やコンプライアンスに反するとなると、会社の主張に合理性(道理その他)は認められなくなり、誰もが会社の主張を信用しないといった社会状況なのである。とりわけ偽装請負は使用者側にとって分が悪い、会社の主張を受け入れてもらえない根拠の典型でもある。したがって、ある財閥系で、「お上の、お達しには全面服従」を営業方針に掲げる資本グループは、この初夏から、期間制限を超える派遣を直雇用に、偽装請負を派遣に一斉切り替え、これを一挙に経費をかけてでも行うとしている。大手メーカー関係も、この傾向にあるのだ。よって、それなりの賃金コスト切り下げも、もちろん行われるのである。



¶フィンランドの基礎教育システムを研究
銀行の融資激減によって、労働力の量に対しても資金投入ができなくなった場合は、労働力の質を向上するしかない。経済のグローバル化に伴って、「高付加価値製品」&「高水準サービス」の商品提供を生み出す経済構造が不可欠とされるなかで、日本の労働市場は、個々の労働者の、一層の労働能力水準向上が必要となっているのだ。はっきりいえば、今までの学校教育、小学校・中学・高校・大学、この学校教育の延長線上の社内教育はやめてしまって、目的意識的に、個別企業内で社員教育を行う必要があるのだ。独自教育でもって、画期的優秀な事業を維持している個別企業は事実存在するのだが、まだまだ、「芽」の状態にすぎない。
そもそも、会社の仕事というのは、個人戦ではなく団体戦である。有能なエリートがいたところで、組織は動かず、詰まるところは水準の低さにエリートも迎合しなければ、民間企業の仕事は進まないのである。民間企業は、あくまで自由契約思考で運営されており、公務員の支配:服従思考を持ちこむことはできないのだ。エリートが分かっていても、実際に仕事をする人たちが消化不良では、底辺に合わせざるを得ない。公務員の例であってさえ、戦時下の日本陸軍がそのものであり、海軍でも、その影響は一部に存在した。
現在、中国やインドが全土にエリートを養成・配置をしても、ゆがめない事実として、「労働者の手に職が付かない」といった非エリートの実状が原因して、資金投資=経済成長の構造範囲でしかなく、投資がなくなれば経済崩壊が必至との経済構造は、十数年たっても未だに存在しているのだ。日本の個別企業の中でも、短絡的に、「資金とエリートの人数」によって会社経営ができると考えている、エリートが少なからず存在するが、経済学や経営学をまともに教えてこなかった所に、こういった不幸なエリート?の原因があるのかもしれない。

フィンランドは、PISA(OECD学習到達度調査)で、おおむね学力世界一である。ビジネスに不可欠となる読解力、日本は15位(2006年の統計では57ヵ国・地域の15歳を対象)である。
フィンランドの基礎教育は、生徒間の比較や競争をさせない。
「底上げ手法」と「物事の関連性教育」の2つを、基本中の基礎においているようだ。この2つは、個別企業の団体戦において、「高付加価値製品」&「高水準サービス」の商品提供を生み出す上では、不可欠な能力を養うのは間違いなさそうだ。

昔の産業といえば、「資源があってそれを売る→売るためには加工する→窮乏のため選択の余地なく売れる」の前提に立っていた。経営資源は「人、物、金」と言われた時代だ。今現在は、世界中どこへ行っても、アフリカの奥地でさえ、こういった前提の経済は存在しない。ところが日本の教育といえば、昔の産業を想定して、そこでの職業生活を念頭においての教育が議論されている。個別企業内の教育でも、学校教育でも、こういった想定や念頭には大差がない。
フィンランドの基礎教育が注目されるのは、いろいろな理由があげられそうである。たとえば、
・細部にわたる「気遣い」は労働者の自発性に頼るしかない。
・商品を買う個人消費者は、労働者であり、労働者の文化内容に合わせなければならない。
・商品の信頼性のための規格やブランドは最低条件であり、買ってもらうには詳細な使用価値の情報交換が必要である。
・日本や日本人は、頑張ったところで利回り資金や投資(交換価値)には縁が薄く、その分野で舞台に上がれるわけがない、
といったところである。ただし、あとの理由づけは研究者や学者に任すしかない。

「図解フィンランド・メソッド入門」(経済界:税込1,500円)の入門解説本が出されているが、「底上げ手法」と「物事の関連性教育」の2つが、徹底してグループ内で行われていることを想定して、読んで行くことによって、フィンランド・メソッドの誤解は取り除かれ、個別企業への活用にもつながって行く。日本の教育界では、企業や学校を問わず、手法だけに目が向いている場合も多い。(学校教育界では、フィンランド・ブームとのことらしい)。手法だけをみて居れば、法科大学院の論述教育であったり、中間管理職の自己啓発セミナーに似通った版に見えてしまったりする。ところが、「底上げ手法」と「物事の関連性教育」の2つを基盤においているのだから、実物は、そうではないのである。

産業革命が起こったとき以来、規格品を生産することが目標であった。
この目標を大きく前進させたのがテーラーシステム(科学的管理法)の発明であった。そのために、ハーバード大学で開発された訓練方式が大いにもてはやされ、その基本となる、「やってみせて、やらせてみて、ホメた上で、教え込む」は、あくまでも、規格品を維持するための最低基準でしかないのだ。
フィンランドの基礎教育では、「混合教育」、すなわち、理科の授業の時に国語の話をする、数学の授業のときに音楽の話をする、国語の時間に数学の話をする、といったように、常に物事を関連させて考えるための教育訓練を子供の時から行うのだ。大人になってから想定外の事態に対応できるように小学生から教育をする。それも、「分らない生徒」のレベルを底上げすることに重点をおいている。フィンランドでは、エリート少人数教育は効果がないと踏んで、頭の良い子は集団グループ活動のなかで、ほっておくことで自ら、より成長するとしている。



¶フィンランド教育の研究(社員教育の視点)
とりわけ国語教育においては、団体戦の仕事に不可欠な、(1)発想力、(2)論理力、(3)表現力、(4)批判的思考力、(5)コミュニケーション力の5つを教え訓練している。5つの事柄が自由にできる能力を養うために、具体的な型や技も、教えているのだ。日本では、作文を教えても、物語、説明その他目的別の作成方法を教えることはない。そして、グループディスカッションすることで、グループ全体を底上げする能力を生徒自身が養っている。

(1)発想力
…人間の脳の機能に沿った思考法に基づいて、真ん中にテーマをおき、発想した事柄をカードに記しつなげて行く。ひとりで行っても発想力の訓練にはならないから、これをグループで行う。半面、分析力を養うためにもカードを使用する。これが創造の全体構想を練る力にもつながるという訳だ。携帯電話で有名なノキアの事業展開も、こういった発想力と同様らしい。「目標に向かって物事を達成する訓練ばかり」をして来た日本の受験勉強などとは、根本的に異なる能力分野を訓練している。

(2)論理力
…ディスカッションでの意見には、必ず理由を求められる。理由のない意見は相手にされない。
訓練にあっては、3つ以上の理由を問われ、3つ目の理由を考えることこそが客観的な論理力を向上させることにつながるとしている。ディスカッションの訓練では、相手が納得しないことを実感することを通して教育訓練するのだ。「雰囲気」や「味わい」とか「常識」といったものが、他人には通用しないとして、意思表示を明確に行う職務遂行能力を向上させようというわけだ。

(3)表現力
…言葉を巧みに使いこなす技術を習得させる教育である。
日本のような作文の書きっぱなしではない。まず最初に、言いたいことの重要な語句、いくつかを指定し、これを関連させて作文を作らせる技法だ。小説にしろ説明文にしろ作文技法は存在するのだが、日本では大学教育に至っても、まったく作文技法は教えていない。文章を不要とする職業とみなされれば、生涯、作文技法に出会うこともない。何かの職業に就いてから、その職種分野の作文技法を教わることになっているのが日本の原状。その理由は、仕事とは「言われたことだけ」をやるもので、自分で考え進んで行うものではないと、日本の昔は、そうして来たからだ。

(4)批判的思考力
…日本の学校教育ではこれを教えない。授業では合理的な物事しか教えていない。
だから、社会に出てから合理性と不合理性との区別がつかないのだ。思い込みを排除し、自分の発想・論理・表現の不完全さを気付く訓練でもある。「本当にそうなのかな?」と見直す訓練で、大量の情報から必要な情報だけを取り出し見極めるといったコミュニケーションの基本を身につけさせる。インターネットの情報洪水に巻き込まれて取捨選択判断ができない人が、日本に多いのは、ここに原因がある。取捨選択判断ができない人に限って、「情報制限」を主張しがちなのである。
他人の書いた作文を、設定を変えたり、同義語を使って書き直すなどの訓練もする。批判的思考力を養うことで、目的に沿った理由を考え、相手の意見の理由に応じて自分の意見の理由を調整する能力を身につけさせるのだ。

(5)コミュニケーション力
…ディスカッションの際に、ふざけた意見でもさえぎったりすること、怒ったり、泣いたりは禁物とのことである。不必要に前提をくつがえすための、「議論の蒸し返しも禁止」である。大人びた子供ほど、ディスカッションの、こういった「いわゆるルール」違反をやりたがるらしく、ここだけは先生の出番とのこと。
「自分が言われて嫌なことは、相手にも言わない」といった日本の世間体(&相手の内面や内心干渉)特有の発想は存在しない。「自分の意見を論理構成する前に、相手の意見を論理構成してみる」といった技法が、相手の立場になって考えるという意味である。相手の論理構成を踏まえた上で、自分の論理構成を調整するといったディスカッション方式である。フィンランドでは、「あまり特殊な例は挙げない方がいいんじゃないかな?」とか、「直感的な意見もいいけど、もう少し論理的に行った方がいいと思うよ?」といったアドバイスが、小学生から大人に対しても出されるのは、日常当然のことのようだ。
まさしく、ディスカッションの際に「物事の関連性教育」そのものを行っている。企業組織の一員であればコミュニケーションなどは不要であった時代から、コミュニケーション力を養い、組織を超えて物事の関連性をネットワークして行くことで、業務を進めて行く仕事スタイルに沿った教育訓練をしているのだ。



¶フィンランド国語教育=児童生徒の評価方法
フィンランドでは、国際社会において、自分ひとりで生きて行くことのできる人間を育てるために、コミュニケーション能力を身につけさせ、その訓練として、質問に答える場合は必ず理由を答えさせ、その理由の論述能力を評価の対象にしている。プロセス重視の教育における評価方法だ。
フィンランド国語教育における児童生徒の答えは、「児童生徒の示した意見」としてとらえられ、正解はない。生徒の示した意見の評価は、「意見そのものを評価するのではなく、根拠との関連において、あるいは根拠として挙げた事実の正当性について、評価すべきものだということです。意見そのものが正しいかどうかなど、誰にも評価できない--これが基本的な考え方です」(フィンランド国語教科書:小学5年生p.107)としている。さらに、「先生は、児童生徒の挙げた理由が適切かどうか、理由と意見がうまく関連付けされているかどうか、根拠として挙げた事実に間違いがないかどうかを重点的にチェックするのです」(同p.107~108)という具合だ。
ところで日本では、唯一、これとよく似た論述能力の教育訓練を教育機関として行っているのは、法科大学院であり司法研修所だけのようだ。たとえば人事総務部門での、「事件の事実があった。理由の事実が真実(合理的に道理をもって証明)である。その裏付証明の証拠がある」といった、解雇や懲戒処分における客観的合理的理由の論述構成がそうである。司法研修所での国語力は公立高校程度以上は求めないとのことであるが、最終的な一人前としての仕上げは、これを就職先弁護士事務所などの職人的教育訓練に託しているのが原状でもある。そういった論述能力をフィンランドでは、それなりに児童生徒の段階で、コミュニケーション能力の手法として身につけさせているのだ。

グローバル経済、もしかすれば日本が沈没するかもしれない瀬戸際に、個別企業だけでも浮かび上がるためには、こういった目的意識的な社員教育が、そこは重要なのである。フィンランドは、人口500万人強程度、この国が自前で国際的に活躍しようとすれば、こういった教育を徹底して行っているところの理由が解る。授業時間は日本より少ないうえに、遅刻やサボりも日本の2~3倍と、フィンランドの子供は学校嫌いなのかもしれないのだ。
学校嫌いの高卒ばかりを抱えていても、団体戦で勝負している個別企業であれば、フィンランド手法を参考にすると、明るく開けて来るのだ。そのきっかけづくりは、総務人事部門のあなたにかかっている。



¶解説・労働契約法:労働契約の原則(第3条)
この第3条について解説している書籍はほとんどない。解説できる人もほとんどいない。それは、法律学の視点に立ってしまうと、関連する判例が見当たらず、明確な自信を持った解説の仕様がないからである。したがって、法律家と自称すればするほど、解説するのが不可能となってくる。学術的姿勢、客観的視点の保持、強い良心による論述は難しくなってくるのが当たり前である。
ところが、労働や経営労務の最前線現場の担当者にとっては、現場の視点からの解説が必要なのである。そこで、この法律の成立をめぐっての数々の情報の中から取捨選択して、本当の所は何を念頭においているのかのヒントを、(あくまで著者の推測との建前で)提供する。
第3条は、政府案は3項目であったが、政府案の前の段階では、それ以上の項目が存在した。その後政府案3項目に民主党から2項目の修正が提案される形で、現在の合計5項目になったものである。

第1項は、
労使対等の原則での契約の締結解除である。これはもとより存在した。民法の自由契約の原則を引きついでいるもので、現在の憲法になって以来は、これに異議を唱える者は極めて数少ない。唱えたとすれば、社会的排除は覚悟しなければならない。

第2項は、
修正案が示されて加えられたもので、「実態に応じて均衡の考慮」である。実態に応じてとは、形式的な「申し込みと承諾の意思の合致」といった契約にとらわれず、実態を重視することにより、民法の雇用契約といった狭い範囲ではなく、いわゆる「労働契約」として広い範囲で取り扱うことを意味する。均衡考慮するということの念頭に置かれていたものは、パート労働法の内容である。要するに、パートや契約社員その他が、正社員との格差が実態として存在する場合について、この条文の内容(要件事実など)が重要になるのである。現在までに、目立った判例が出ていないことから、解説が少ないだけで、決してお飾りや基本理念の原則を述べた条項ではない。考慮しなかったとは、検討した事実が証明及び裏づけ証拠がないと想定する。

第3項は、
これも修正案により追加されたもの、「仕事と生活の調和」の配慮義務である。念頭においていたものは、たとえ労働基準法で、事業主が自由な労働時間設定ができるとしても、その時の社会に受け入れられないようなシフトやローテーションを組まないようにしなければならないとしているのである。例をあげると、〔始業時刻8時~終業時刻22時、休憩が12時から18時まで〕とか、〔当日の労働日の終業時刻が23時55分、翌日の労働日の始業時刻は午前零時5分〕といったようなものである。配慮しなかったとは、何らかの措置をしようとの努力もなかった状況を想定する。
現在、内閣府や厚生労働省で提案されている、「仕事と生活の調和」は、この労働契約法の話ではない。同一の語句を使ってはいるが、労働契約法を根拠とする表現はない。基準法、均等法、パート法などの名称は出ていても、労働契約法の名称は見当たらない。労働契約法の「仕事と生活の調和」を変質させ、「ワーク・ライフ・バランス」としているのだとの批判まで沸いている。
仮に労働契約法が行政関係の法令ではないとの言い分が出たとしても、現に、労働基準監督官は労働契約法の範囲であれば労働局のあっせん等を紹介し、都道府県労働局の紛争調整委員会、府県の労働委員会では労働契約法を取り扱い、紛争調整委員会では判例ならぬ合議あっせん案を提示する機能と権限を備えているのだ。あっせんや司法の現場では、労働契約が念頭においている仕事と生活の調和なのだ。

第4項は、
労働契約を遵守して、「信義に従い誠実に」権利と義務の行使を定めている。政府案の第2項が第4項に項目が繰り下げられたもの。信義に従いとは、いわゆるペテンにかけてはいけないということ。誠実にとは、聞かれたことはすべて説明する誠実義務とか、協議で一致した意思を守る義務とか、就業規則に定められた利益はくまなく適用する義務がある、などのことである。たとえば、有給休暇の存在に気が付いた者に限定して付与する実態、退職金規定の存在を知った者に限り退職金を支給する実態が、その他、労働条件の制度の存在を知られなければ情報公開しないといった手法と結果が、この第4項に反するのである。

第5項は、
労働者と使用者が、契約を超えての権利を、それぞれ超えて行使してはいけない、権利濫用は、定まった権利以上にあふれて用いることであり、職権濫用とは、職務権限以上の権利をあふれて用いることである。乱用とは、みだれることであり、あふれることではない。乱心・狂乱のみだれるのが乱用であり、その場合は、第3条第1項と第4項、第9条、第14条~第16条などが、主に用いられることとなる。第5項があることで、職権濫用が、不法行為として取り扱われるとか、民法第1条第3項の権利の濫用として裁判官の判断を待たなければならないなどのことを防止し、契約不履行として労使双方の不利益を早期に救済する効果をもつものとなった。

労働契約法は、労使が紛争したとしても、社会共同体の秩序を維持するためのルールを定めたものであるから、使用者側にとっても有利な側面をもっているのである。グローバル経済とか社会共同体に反する会社経営を行ないたい場合には、確かに、都合の悪い法律である。
労働契約法では賃金に関して、あまり触れず、第3条に象徴されるように、権利義務に力点をおいているのである。


¶かんぽの宿:偽装請負の公然
日本郵政が経営するかんぽの宿では、夜の10時ごろから朝の8時頃まで、職員を誰ひとりとしておいていない。すべてを警備会社に外注して、効率化を図っているというのだ。ところが、ここで事故が発生し、それをめぐって偽装請負の実態が判明した。
7月13日夜、ある宿泊客が、深夜11時頃にポットに入った飲料氷水を求めたところ、トイレの汚物入れポットに氷水を入れて、警備員が部屋に届けたのだ。翌14日の朝7時過ぎ、誰か職員が居るだろうとの期待から、氷水ポットを再び求めた。今度は、プラスチックの水差しを厨房から持ってきたと言って部屋に届けた。

そこで騒ぎになった。
これに対して、ルームサービスを警備員にさせること自体が、警備業法や労働者派遣法に反する行為であるとなったのだ。そこには、深夜以外は食堂もフロントも、たとえ夏休みシーズンを迎え、予備人員を配置しているとしても、人員が多すぎることは一目瞭然。
だとしても、なぜ深夜には「かんぽの宿」の職員が、誰ひとりとして常駐してないのか?といったことになった。エレベーターには、時給900円の契約社員の募集広告が張られているが、深夜時間帯の募集がない。見るからに業務効率は低いようで、まさに「お役所仕事」、民間宿泊施設のような、従業員の自主性に期待して業務効率を上げようといった優秀性は、まったく感じられない。

さて、ルームサービスといえば、客からの、何が出て来るか分からないような要望に対処する業務である。警備会社に外注することができたとしても、それをこなせる警備会社は存在するはずがない。こなす能力がある会社であれば、ホテル業務請負業となり警備業ではなくなる。そういったニュービジネスが生まれれば、ホテル業界の人材不足や業務改善の苦労は一挙に解決する。
まして、警備業は人の生命・安全や財産など守る業務であり、ルームサービスと併合して行うことは矛盾が生じ、業務遂行は不可能なのである。
そうすると、多種多様なルームサービスが分からない警備員が、派遣先である「かんぽの宿」の職員に聞くとか教育を受けることとなる→これが頻繁に発生する+サービス向上を図ろうとすると、職員が警備員に事実上指揮命令するといった実体なることは、十分に予見できることなのである。日本郵政の宿泊事業部責任者は、あっさりこのことを認めた。

確かに、全国を統括する宿泊事業部責任者が言うには、日本郵政の職員などが、外注先の警備員にルームサービスなどをするようになどとの、直接な指揮命令は行わないことにしたとのことであった。教育についても、直接教育することがないように、「かんぽの宿」ごとに警備員のリーダー格に教育を行うとしている。だとしても、ルームサービスのノウハウを持つ外注業者に依頼するのならともかく、ノウハウがないことを認識しているから教育を行うとしているであり、やはり、「かんぽの宿」の職員が、直接指揮命令することに何ら変わりがないと判断されるのは目に見えている。
宿泊事業部責任者は、いろいろな意見は聞いてくれるが、最後に一言、重要な話をした。
郵政が民営化になって5年以内に、個々の「かんぽの宿」の施設自体が他人に譲渡されるか廃止されるかとなっているので、(今更)改善も遵法も計画にはないというのだ。
これに対し、「かんぽの宿」を経営する日本郵政の本社を管轄する東京労働局は、警備員にルームサービスなど行わせ、派遣労働者として扱っている情報提供(7月16日)を受け付けたものの、その後の行政指導内容までは申し上げられないとしたようだ。官公庁とか外郭団体に対する派遣や偽装請負に関する行政指導は、昭和61年の派遣法成立以前から、厚生労働省は弱腰と言われているが、現在もそうなのだろうか?

民営化された後の、日本郵政本社からの意欲の低下と、将来失望による投げやり的偽装請負の継続、これでは公共宿泊施設の役割である、日本の観光産業の下支えは、一体、どのようになるのであろうか。もとより、簡易保険の余ったカネを使いたかっただけの話だったのだろうか。
「かんぽの宿」は、高齢者や庶民には人気の場所であったが、安かろう悪かろうの、あと5年の寿命を待つだけとなったのであろうか?
そこまでひどいサービス内容の施設であれば、誰が買い取っても、華やかに再生したように見せかけることができるかもしれないのだ。