2013/11/05

第139号

<コンテンツ>
教科書通りの売り上げ不振&経営不振が続出
 ・経営には選択ではなく、創造が問われている。
 ・「顧客の内心(良心と思想)にまで届く売れ筋商品」
 ・その社会経済のキーポイントを握る人たちは、
 ・「そもそも労働とは?」に関わる学問研究も旺盛。

ブラック企業の本質は、善悪ではなく、沈没するか否かの問題
 ・経営側が注目する本質とは何か。
 ・経営側の共通した本音は、「経営危機だから、ブラック!」
 ・ブラックとは、例えば次のような悪循環の現象
 ・現実離れした官僚の着想と失政根拠

過去は、世論を良識へと整理する事業に価値が認められたマスコミ、
 ・今、その実態は不採算・経営危機
 ・ところが、時代はICT産業革命の真っただ中、
 ・今読んでいただいている、この「総務部メルマガ」自体も、
 ・ここでも、「顧客の内心(良心と思想)にまで届く売れ筋商品」の課題


§教科書通りの売り上げ不振&経営不振が続出
今年の4月第3週から、如実に個人消費が落ち込んでいる。これは統計数値に現れることはない。足で稼いだ取材やインタビューでしか分からない。取材を怠る大手マスコミでは報道出来ないし、視聴率や媒体収益性に頭を奪われている人たちだから、ジャーナリズムからも益々遠ざかっている。
多くの個別企業に現れている、その教科書通りの実態とは、
 1.顧客の内心にまで届くような売れ筋商品を供給する意思がない。
 2.顧客ニーズをつかむマーケティングも統計は駆使するが形骸化している。
 3.顧客の内心(良心と思想)へのインタビューをタブーとするマスコミを頼りに経営を行う。
 4.よって当然のことながら、海外ともに売り上げが落ちる。
 5.在庫処分&旧来企画・旧態管理職の保身目的でダンピングをする。
 6.目前の解決を要する課題を、「内部調整」と称して隠ぺい先送りが常態化。
 7.労働では無く「労働力限定」で仕入れダンピングに走る。
 8.創造的労働とルーティン的労働に二極化する事で品質低下。
 9.ルーティン的労働の配置のズサンさと穴埋めのためコスト増加。
 10.あげくに、職業能力も意欲もない集団と化し不合理不採算=破綻。
 11.違法行為が続出して利益が賠償金に消えて行く。
 12.労働意欲に関わる労働事件への対応が一段と労働力の減少を進める。
……この大まかな順序に従って、銀行などの借金を消すためには破産申し立てが行われ、個別企業に蓄積された職業能力と労働は散々バラバラと化す。倒産を選ばない道は唯一、経営者は無能な労働者とともに個別企業と経営者心身の在庫処分だけである。

経営には選択ではなく、創造が問われている。
この夏以降は、瞬く間に経営環境が変化し、また再び変化している。アメリカの財政危機は自らTPPのあり方を根底から外してしまった。そのアメリカの財政危機は増幅されて来年2月に延期された。日本の税金と社会保険料を牛耳る官僚たちにとっての財政危機は増幅しているが、それとは違う別の道の存在をマスコミは報道しない。オリンピック歓迎の世論に押されて、全国の公共事業予算を福島原発に大量導入する方針が進められようとしている、だが放射能遮断の見通しはない。まして気候変動を迎え治山治水の公共事業の緊急性が訴えられている折でもある。
こればかりではないが、経営を取り巻く環境を整備してみると、
「それぞれの個別企業での、新時代への方向を形づくること」
……これこそが重要なのである。それは、あれかこれかの選択ではない、というより、そもそも選択する対象物がない現実なのである。
それは、選択することこそが、「人間の自由」と誤解している人たちにとっては、公私共に閉塞感そのものなのである。新時代への方向とは、=創造=することなのである。事業経営にとって創造というものへの姿勢を表現する言葉は簡単である。それは……、

「顧客の内心(良心と思想)にまで届く売れ筋商品」
の一言に尽きる。およその経営・経済学問、さらにはビジネス書に至るまで、この一言の、条件付き(制限付き)事例を執筆しているのである。この一言は、個別企業の経営を実践する人たちからすれば、意味内容を理解する助言にはなったとしても、=創造=することを手助けしてくれる水準にはない。むしろ、現実には実行が極めて難しいと思い込んでいる。
それは約500年ぶりの社会経済転換期にあって、今の段階では理論法則化されてない。だから、学校教育制度で育った人たちには応用出来ないのである。学校教育で育ったことは人類の幸福にとってはプラスではあるが、転換への妨げになることを学べなかった要素はマイナスである。日本では、地場地元や個別企業がトップエリートを育てることをしなくなった。中国でさえ地場地元がトップエリートを育て、帰郷して活躍してもらおうと未だ熱心である。ちなみに東西欧州に現存する貴族階級は、学歴は高卒以下に抑え、家庭・家族・社交の中で、いわゆる「帝王学」なるものを身に付けさせている、だから現在も社会経済のキーポイントを握っている。(ちなみに、ユダヤ人?が「牛耳っている」のではなく、これと類似した教育法なのである。)そして……、

その社会経済のキーポイントを握る人たちは、
その総てが、道を選択する行為は枝葉問題として処理し、根本と幹は=創造=することに専念をしている。その教育・自己啓発?と言われるものは、「誠の芸術教育」あるいは「楽しさの芸術のたしなみ」に依っている様子である。それは「芸術」の名を借りた現実生活からの逃避とは異なるものである。重ねてそれは、「経営とは芸術である」と思っている人たち、「人生とは芸術である(ゲーテ)」に励まされている人たち、角度を変えてみれば、産業復興と芸術の関わりを示唆したラスキンの、「人間たるには、勇敢さと愛が必要」といったふうな文学的表現が繰り返され、人々のいざというときの判断基準になり、(筆者の知るところ書物や録音録画放送が行き届き)成功体験として約150年は生き続けているのである。
生活に余裕がなくなり、すなわち、実生活の貧困、哲学の貧困、大金を回していても時間貧困、閉鎖的になり人間関係の貧困といった者たちには、今述べたような、「誠の芸術教育」あるいは「楽しさの芸術のたしなみ」に遭遇するチャンスはない。そういったチャンスに遭遇し水準が備わっているにも関わらず、差別され排除されたからこそ、自由平等や市民革命(近年の研究では社会主義革命の一部生まれ、シューペンターへの再注目)が繰り返されていると診るのが妥当なのである。
芸術(アート)は、人間の希望を芸術物を通して創造し他人に伝達するが、技巧・曲芸(パフォーマンス)は訓練そのものへの賞賛と感動にすぎないからである。技能(スキル)は、貧困状態に留まった場合の労働力(労働ではない)の個別事業ごとの職種訓練結果の範囲に留まらざるを得ない。どこの国でも個別事業を超越して通用する技能(スキル)は存在した事実はなく、技能(スキル)の評価による労働異動が政策的に成功した例はない。労働者の引き抜き、労働者を採用する判断は、“価値を作りだせそうな人物”だからである。労働組合などが基礎理論としているマルクスの見解も、技能(スキル)が労働の商品化ではないとしている。したがって、職業能力評価というのは、職業能力が向上するか否かを見極める客観的合理的資料でしかないといったことは、数百年前から肌で感じ採られてきた帝王学の一種でもあるのだ。それを筆者がICT産業革命の機器を通じて、具現化・可視化したにすぎない。(職業能力評価表の例)
 http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/254
なお加えて、断ってはおくけれど、このようなチャンスのない人たちに、自由平等や機会均等を保障している法律や制度を、筆者は見たことがないし、もしや「存在する」と主張する人は、どうぞ現物を持ってきてほしい。

「そもそも労働とは?」に関わる学問研究も旺盛。
新しい次代に向けて、学問研究も進みつつあり、経済・経営・社会事象・心理・大脳生理その他の垣根もなくなりつつある。数十年前の学術理論が、学問的に否定され、自ずと経営や職業ノウハウの転換が進んでいる。ただ、日本は全体的に極めて遅れており、「頭の良い子は多くても、使い道のよくない子」の蔓延が、高学歴者を中心に襲いかかっている。そういった学問研究の存在も、サービスや生産の現場に持ち込める職業能力を持つ人材が、現場から外されているのだ。その人材とは高賃金リストラ対象者であり、高学歴女性労働者である。
ある実存主義哲学(精神科医とケースワーカーの大論争)を解説すれば、
ギリシャ語で言うエロスの愛の要素が強い人は、家族や家庭(妾も含む)への愛を実現するためには、他人を踏み台にすることを悪とは考えてはいない。そのエロスの愛は、現実(を重視するから実存)を観てとっての、「本来的自我」ではなく、非現実的な「本来的自己」、すなわち、「自己中心・愛の対象者への独占欲」にすぎないといった批判にさらされているのである。善悪の思想を発明した人はユダヤ人の祖先であるが、珍しく善をエロスの愛と言い換え、独占欲が満たされない場合には、突如として悪を持ち出すといった具合でもある。
ギリシャ語のアガペーの愛、この解釈は難しく博愛との表現は誤訳であり、博愛とかアガペーはキリスト教の専売ではないが、こちらの愛の要素が強い人は、周囲の人たちへの愛を、さまざまな障害を乗り越えて現実のものとしようと努める。彼らのいう愛は、最初の日本語訳は「大事にする」(15~16世紀)といった表現であった。そこには、世間体との反発・阻害・孤独の体験を繰り返すのであるが、いわゆる先に述べたような芸術的思考が共通基盤となっている。ちなみに、童話には残酷な話が含まれているから子供は興味を示し大人への教育としては重要ではあるが、童話の根底部分には芸術的思考(例えば、戒はあっても「生きる希望」はない)を設定しないと考えられる。
エロスの愛を求める人は目的・目標の存在が人生・生命の柱となりやすい。その目的・目標に向けての自他ともへの幻想に影響されやすく、すなわち、このメルマガ読者向けの現代例を挙げれば、「給料が上がれば働く意欲を増す」あるいは、「地位が上がれば管理職の能力を発揮する」といったリアルからかけ離れた着想に乗せられやすく、そういった誤解が、労働意欲や事業欲の原動力にもなっているという現象である。
が、アガペーの愛の要素が強くなるほどに芸術的思考など通して、時期・時間的結末から離脱克服するように転向が進み、社会制約とは付き合うけれども創造性が伸びるとする思考である。ただしこれらは、あくまで、ひとりの人間にはどちらの要素が強いかを論じているだけで、この二つ以外の要素も存在することを考えておくのが前提である。いずれか一つの選択を迫ることはギリシャ哲学の特徴であるが、古今東西、選択を迫れば人間は「芸術?」や「宗教?」と称して現実から逃避する精神構造であると実存主義哲学系は論説する。だとすれば、現代人にとっては占い術と同列思考などなのである。
さて哲学とは、この後に読者の貴方が、今過ごしていること、今日あすの生活から着想すべきことである。


§ブラック企業の本質は、善悪ではなく、沈没するか否かの問題
である。ブラック企業という呼び方を、どういった意味あいで誰が呼び始めたかを調べてみても分からない。日本の世間や社会(共同体)の共に広まったからこそ、マスコミが取り上げて、収益性のネタにしているのは読者も承知の通りである。厚生労働省は、徹底してブラック企業に対するマスコミ対策(その先端はNHK国営放送)をこの10月から繰り返している。厚生官僚らのブラック企業定義は、「人の使い捨て企業」である。その議論によると、人の使い捨てによる労働力(労働ではない)の無駄が日本経済再生の妨げになっている、とするものである。よって、見せしめ的労働監督行政は行うものの、個別企業がその時点での対応を誤ることがなければ、即死に持ち込まれることはなく、抵抗さえしなければ個別企業は自然死を迎える程度に加減して監督するという訳である。

経営側が注目する本質とは何か。
「ブラック企業」といったマスコミから流される言葉に、一喜一憂する人たちは、経営者も労働者も、何れは時代の波に飲み込まれて消えて行く運命と見ておいたほうが自然である。霞や霧の如くにブラック企業を話題にしても、これに対する改善・改革の方向は見えてこない。さらに、マスコミ記者の使うブラックという言葉は、そのほとんどは受け狙いである。したがって、経営側が注目する本質とは、 労働法令その他の違反行為に裏付けされた企業が、
 One. 競合他社からの訴追による受注脱落、
 Two. 社会的非難による販売・生産・サービスの減少、
 Three.ブラック判定による労働意欲の低下、
 Four. ブラック企業に陥る原因となった事業効率性の低迷
……の四つである。この四つは、経営四分野である収益性、生産性、労働意欲、事業効率性の重要問題に関わるのである。
日頃から統計資料の少ない労働者側の受け止め方の調査が、この10月31日に発表された。大手企業労働組合の集合体色彩の強いナショナルセンター、「連合」が行ったインターネット調査である。その特徴は、今までのような「連合」傘下の組合に対してのアンケート調査ではないところに、重要な意味がある。そこには、いくつかの特徴が散在する。
 (A)20代の4人に1人がブラック企業で働いていると認識、
 (B)その後にかれらの取る行動を、年代別に集計、
 (C)3割の人が仕事で健康を害していると回答、
 (D)長時間労働の「やらされ感」、
 (E)時間外未払いありの回答は35%、
 (F)長時間時間外は上司の業務管理に原因とする回答は49%、
など、興味深い結果が並ぶ。上から目線の経営側からは見えない現象をとらえ、経営にとって有益な調査結果でもある。
 労働者側の調査(10月31日)連合総研、
 第26回「勤労者の仕事と暮らしについてのアンケート」
  http://bit.ly/HxuyEp
経営側が注目する必要のある事柄は、
この調査と従来の経営側調査を総合した上で、
 (a)長時間労働と無能管理職=低賃金×利益率低下
 (b)ヒット商品の空振りと不毛な労働の繰り返しでの労働毀損
 (c)借入金の連帯保障制度と「内部調整」と称する先送り
……といった状況が、誰の頭にも浮かんで来るといった本質に迫ることが重要なのである。それは、企業の下請け協力会社傘下に至るまでの範囲で見ておく必要があり、その理由は、「下請け根性」丸出しの外注業者によって個別事業の足を引っ張られるからにほかならない。あるいは、部門単位で当該状況の発生は、優秀稼ぎ手:部門から生み出された利益を賠償金その他の支払いに瞬時にあてられ、有能な労働者の賃金や賞与が減額される事態にほかならない。

経営側の共通した本音は、「経営危機だから、ブラック!」
ヒット商品や売れ筋商品を生み出してくれる有能な労働者を確保し、今や経営を安定させ、海外展開をもしてくれる有能人材と組みたいところである。これは、大手・中堅・中小企業に至るまでの共通本音である。
ところが、この経営側本質を阻害している人たちが、今やサラリーマン行動を起こす人たちなのである。現在のサラリーマン行動は、事業主や経営幹部が対策を持て余す事実関係で、日本の各地で企業の規模を問わず続出している事態でもある。そのサラリーマン的行動とは、組織の中での保身を図り、保身に都合のよい過去の事例を強調し、「内部調整」と称して保身のために先送りし、そういった論述構成(修辞学:レトリック)を駆使するといったものを、個別事業の経営や管理よりも優先する作為又は不作為なのである。だからこそ、本来の作戦参謀である総務人事部門が、実際の調査から読み取る論理結果が重要なのである。それは、顧客に対して能動的であるべきマーケティングでも然りである。サラリーマン的行動の背景にある、労働意欲を消失させる論理構成は総て、「幻想と作り話」にほかならない。何十年も前から、「大企業病」とサラリーマン的行動の問題点が指摘されていたが、現在に至っては問題点の指摘を超え、構造的欠陥として変質し、企業の危機に対する対処能力を喪失させている。すなわち、サラリーマン的行動が、事業の縮小や崩壊を促進させ、それが事件的発生が度重なり、経営四分野である収益性、生産性、労働意欲、事業効率性を直撃しているのである。

ブラックとは、例えば次のような悪循環の現象
こういったサラリーマンは、管理職が一つの職業であるという自覚がない。「幹部」という管理職の職業を現わした名称は日本で作られた。(中国は直ちに中国語に取り入れ、「幹部」という中国共産党の独特の職業として使用している)。この職業概念が日本では消滅しかけており、むしろ、管理職は出世や保身のための道具だと認識している労働者が多いのである。おそらく原因は、借金を抱えたために、その返済を迫る金融機関や金融機関に都合のよい労働者(職業よりも帳簿数値)が、第一優先された風潮(新自由主義)としか言いようがない。
 (1)事は有能な商社と商社マンが経済活動から排除され、
 (2)技術者が干され技能者は無視され=技能や学術が技術化されず、
 (3)コストカットしか頭脳にない「脳味噌筋肉労働」がもてはやされ、
……結果、正常な資本主義的経済活動を停滞させてしまったプロセスである。
 (イ)中途採用の労働市場に職業能力を有する労働者がダブつき、
 (ロ)それを観た両親が子供の生活を心配し就職支援会社の珍説に踊らされ、
 (ハ)新卒就職市場はキツネやタヌキの演技をする子供達であふれ、
 (ニ)「脳味噌筋肉労働」の愚かさを観た若者が「非正規労働者?」を選択する、
 (ホ)サラリーマン化した個別企業の採用担当者は直属上司の保身が図られる報告書のためにタヌキやキツネの卵を採用をする、
 (ヘ)それは、日本の高度経済成長時代に個別企業が確保に努力した金の卵ではない。
……むしろ、日本的サラリーマンの職業能力であった、「企画を実現するには=、絶対に自分の企画した意見を言わない、他人の意見を披露させ、他人の批判に晒させて、結果=自分の企画を実現する」といった職業能力テクニックですらも消滅しかけている。当然、管理職の、「様々の有能な労働者をコントロールして組織的にまとめて動かすことで課業や事業を成就する」といった、根本的な職業能力概念すら消えてしまったかのように見える。そればかりか、そういった根本的な職業能力の話題を持ち出せば、金融機関の息のかかった経営幹部からリストラ対象と決め付けられる危険がある。
===リーダーシップとか統率力と称されるが==
その中身は「脳味噌筋肉労働」にほかならず、まるで戦時中の日本陸軍の尉官(少尉、中尉、大尉)を消耗品と扱った過去が思い出される現在の状況である。中途半端な教育訓練のために日本の空軍パイロットは、次々と打ち落とされ、空母から飛び立つが着陸技能が貧弱、精神論では追いつかず覚せい剤を飲ませて特攻隊(無能なのに少尉に出世させ)で出撃させた軍部官僚たちと、やっていることは同じにしか見えない。リーダーシップとか統率力などを力説する企業経営に、ブラック企業が多いのはこのためである。
===出産育児に励む女性労働者には==
各個人ごとの私設保育所=両親に子供の面倒を見てもらう=を強いられている現実が増えつつある。公立保育園政策は民間への外注化が促され、許認可保育所は補助金づけにして官僚の言いなりにさせられている。厚生労働官僚の、「まるっきり託児に限っての政策」に不安を感じて、個人私設保育に安心安全を求める母親が増加し、その不安を身をもって体験した祖母は、保育知識が無能であったとしても保育を受け持ちたい回避策である。毒舌覚悟でいえば、この女性労働者は二流であり、二流の「脳味噌筋肉労働」にならなければ自らの職業と家庭維持の経済的担保が図れないような政策に陥っていることを、厚生労働官僚たちは気づかないのである。一流の女性労働者を確保したい個別企業であっても、採用に非常な政策障害が存在、すなわち、官僚たちの政策は女性労働者の人数増加に限るものだから、家庭や子育ての質の向上や将来希望を見えなくしており、これが女性労働者の絶望感を助長しているのである。

現実離れした官僚の着想と失政根拠
こういった現象が、厚生労働省における現官僚たちの政策が、的外れである根拠のポイントである。OECDが指摘する女性労働力の活用とは、全くもって裏腹・反面である根拠もここにある。余談ではあるが、先程紹介したブラック企業その他に関連するアンケートの公表とともに、この連休中に労組ナショナルセンターの「連合」は、サラリーマンの検定(資格)好きを狙ってか、「ワークルール検定」試験を実施した。だがこれとて、私からすれば単なる批判を増長させるだけの、彼ら労働組合の失政(政権参加の姿勢や政権能力資格要素に疑問)にしか受け取れない。
ことに、重要柱の女性&非正規労働の背景には、
専業主婦が急増したのは、団塊の世代の女性らが、女性差別実態や婦人論を学びながらも、社会の現実(結婚退職違法判決:1967年住友セメント事件)を目の当たりして、家庭維持と子育てのために専業主婦に緊急避難した、そういった定説となっている現実や研究を官僚たちは無視しているのである。無視していると言えるというのは結婚退職違法判決その他をネタに男女雇用機会均等法の法案要綱を作成したと官僚自身が周知していた事実が過去に存在したからである。機会均等法の以前の、男女雇用に関して労働省内に機関が設置される前の官僚(女性)と筆者は、当時の総理府の建物の中で女性の深夜労働について協議した結果、女性深夜労働合法化&深夜労働に女性を追いやる法改正に逃避した、自らが妊娠中の女性官僚の事実関係からである。
こういった現実離れの着想+失政の原因を官僚経験者に尋ねれば、「最初は真面目でも、出世のためには保身を図る。その取引が待っている」と指摘した人がいるが、筆者が、「現在の政府の各省庁は、まるで馬賊と同様で、各馬賊の集まりである」と冗談を言ってところ、戦前を知る超高齢の学者各位に大うけ(冗談とは核心を突く滑稽さ)したところである。


§過去は、世論を良識へと整理する事業に価値が認められたマスコミ、
今、その実態は不採算・経営危機
にさらされている旧来事業の業態のもとで、こういった本質や核心を突く記事を掲載するわけにはいかない。出版事業の経営は現代、借金やサラリーマンを抱えた個別経営を強いられているから、本質や核心を突く記事や論文を掲載しても、不採算を招くリスクばかりなのである。よって、筆者も相談を受ければ、「掲載禁止」とアドバイスするのが当然である。

ところが、時代はICT産業革命の真っただ中、
その道具を使えば、差し支えは次々と解消される。ただ彼らには、紙の仕入れ業者、配達運送業者との関係を切ることが出来ない。さらに、マスコミに限らず出版業界全般に言えることではあるが、業界労働者の職業能力向上に手を抜いて来たために、安易に不採算のシワ寄せが労働条件低下に流れてしまい、悪循環を知りながらも、ジャーナリストとして手をこまぬいていた一瞬の勇気の欠落に、経営危機の原因があることを気づいていても、知らないふりから脱却出来る創造性の貧困に原因がある。

今読んでいただいている、この「総務部メルマガ」自体も、
発行数は約5,000通、何の宣伝もしていないけれど2日にひとり読者の割合で増え続けているのが特徴。そこで注意が必要なのは、筆者自身が読者数増加や有料化の誘惑に乗ってしまえば、やはり馬賊やマスコミ関係者と同じ道を歩む危険である。日ごろから、ミニ:シンクタンクもしくはジャーナリストの職業能力を向上させているからこそ、身体障害があるから肉体労働が全く出来ない境遇にあっても、おかげで私生活は楽しく安定し、芸術を取り入れさらなる職業能力向上の実験も自ら行っている。

ここでも、「顧客の内心(良心と思想)にまで届く売れ筋商品」の課題
である。その理由も、今月号の初めの方で述べた通りである。は如何なる評論家が述べようと、如何なる人も様々な貧困化(生活水準、哲学、内心、文化その他)を避けようとすることは自然である。ところが今の日本では、世界の中でもダントツに、「貧困化を我慢せよ」との説得にさらされている国民と経営者の姿が存在する。それは今の政府や官僚だけの主張とは限らない。黄昏を迎えた高齢者たちは、いま最も有利な年金生活を過ごしているが、それが減額される危機感と相まって、後進に対して人生における窮乏生活を説き、孫の世代に対して金銭をわけ与えることで、若年層の自律性や職業能力習得の阻害を生み出そうとしている。たしかにそれは、個人的な優しさが起因するのではあるが、それでは単なる与える側だけの、内心の自己満足に留まらざるを得ない。孫に、「いわゆる帝王学」を体得させ、貧困から脱却させる方法は他にも存在している。
とりあえずは、労働者の職業能力向上と、職業能力の効率的育成のための向上素質評価から始めて、今日明日の売り上げを増加させる、「方向性・戦略」が不可欠なのである。
(資料:固有価値創造システムの人間発達と教育)
 http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/24
戦略とは原則性をもつということであり、原則がなければリアルな柔軟性は存在し得ない、これが人類としての定石である。