2014/04/08

第144号

<コンテンツ>
日本再生のための =基礎と実践の理論= 特集
  ・「夢と希望」こそが、正当な経済活動である。
  ・最新医学研究でも、「意欲・感動・希望」の脳内メカニズム
  ・必ずしも通貨のみによって流通・交通・航路を行うわけではない
  ・「経済の成長」は、等価交換物としての通貨だけで計測される。
  ・そもそも公共事業その他は、良心の自由を柱に成り立つ
  ・現代日本女性への隷属的抑圧的社会システム
  ・実際に「経済の豊かさ」を創造生産している地場産業・新商品開発や地域

頭脳労働のメカニズムの解明
固有価値を生む労働の職業能力を育むための実験
実証=職業能力向上の「練習」、その方法の主旨
  1.質の高い練習方法は、正しい指導とフィードバックに集中する。
  2.集中せずに漫然と練習すれば、仕事も漫然となる。
  3.フィードバック反復練習の成功率で習得確認、計測、管理、項目設定を。
  4.習熟段階に併せ水準をアップ、可能な限り複雑なものを正しく。
  5.練習時間の80%を集中し、その人の得意な部分を桁外れに強くする。
  6.本番で、複雑さや不確実性の困難に直面しても余裕がでる方法。
  7.即刻!能力や才能を低下させる、危険行動と領域


§日本再生のための =基礎と実践の理論= 特集
日本経済が成長しているような雰囲気を醸し出すマスコミ報道は非常に多い。ところが、実態の景気は好転しているわけではない。ある瞬間の統計データだけを取り出して、さも全体を見通すかのような説明というのは、統計学に無知な人たちのすることである。実体経済や「経済の豊かさ」で日本の地位は転落の一途である。多くの評論家は、「番組視聴者の受け狙い」に走っているから、思い切った自分の考えを表すこともなく、奥歯に物をはさんだ表現ばかりである。そもそも、コミュニケーションとは「推論による意図理解」なのだが、奥歯に物をはさんだ表現でコミュニケーションは成り立たない。
そこで、今回のメルマガは、日本の経済と社会を再生するための、「基礎と実践の理論」の特集とした。「インフォメーション&通俗解釈」では、寄せ集め観察と生半可な屁理屈のごった混ぜにすぎない。大まかな結論は次の通りである。そして、その「基礎と実践の理論」に基づく、日常行動の具体策も提起している。
「現状を転換するには、創造性を柱においた経営方針が個別企業に必要である」
ということだ。多くの企業と人間が貧困に陥っても、浮かびあがっていることができる集団は、唯一このポイントに拠るのである。
創造性もなく、発展途上国と同様の水準で事業を回しているのであれば、日本が経済後退するのは当たり前のことである。メルマガを書きながら筆者が経験した、再生前企業体質そのままのJAL予約受付センターのようなものである。それは、国や地方の官僚たちが組織保身を前提とした政策をアレコレと打ち出し、あるいは民間企業の能力が無いゆえの「官僚手法の猿真似」に走る経営幹部・管理職たちが示す、経営管理(国家も基本は経営である)そのものである。すなわち、説明をきかなくても読んだだけで、「見るからに、空回り」といった経営方針や施策物ばかりである。この屁理屈自体をもっともらしく説明しようとするものだから、益々怪しげに陥るのだ。(大学でカントの哲学すら読まなかった似非秀才かな?) 経済政策全般から始まって、雇用分野の女性進出、保育士の確保といった、社会に影響を与えるような官僚の説明(政策?)もが、すべてが白々しいものである。社会保障や医療介護は予防や事業の創造性を募っていけば、消費税を増額し湯水の如くばらまく(交付による権力)必要など在りもしないのである。
似非なる秀才には、そういったことが解らない。第2次世界大戦前のドイツでは、ナチスが政権を維持するために、すべて前倒しの借金で失業者400万人の瞬間救済をした。労働者の福利厚生や娯楽にも、選挙の集票のために多額の国債を投入した、この事実は殆ど知られていない。その裏では、ナチス政策に異を唱える人物を、森や収用所でナチスは命を消していった。警察は殺人傷害を捜査せず全て見ぬ振りをした。すなわち何時の時代でも、似非秀才は、保身のために、実のところがバレないように、アレコレと何でもしてしまう種類でしかない。

「夢と希望」こそが、正当な経済活動である。
それが人間の生きる支えである。この生きる支えがあってこそ、「生命(いのち)を生きること」が社会擁護され、その基盤の上に個々人は尽力をするし、その組織は活気を帯びるのである。夢や希望が叶えられないような商品を、製造して売ろうとしても、そこに「心や気持ち」が注がれるわけがない。商品流通や小売り販売の歴史を見ても、良い?商品であっても、そこに「心や気持ち」が注がれているような行動がなされていたからこそ、成果をあげた例ばかりである。
固有価値が従来論じられてきた商品価値と大きく異なる点は、固有価値には「夢と希望」を含んでいることである。この「夢と希望」のために人類は自発的労働に携わることとなり、それが良心(内心)の自由と自覚されるときに、その固有価値商品の流通・交通・航路のために社会経済制度の変化もおこして来た。
注)商品価値の「固有価値」理論の果たす役割
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/149

従来の商品価値論では、その殆どが「ぼんやりした欲望全般」に基づいて経済活動が行われるとした曖昧なものであった。ところが、公共事業その他の経済外的強制の働く商品を除いた場合にあっては、そこには少なからずの、「意欲・感動・希望」の一体化した商品価値の3要件が含まれていたことは確かである。
注)固有価値の絵
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/142

最新医学研究でも、「意欲・感動・希望」の脳内メカニズム
が解明されつつある。この医学側面からも、人間は固有価値を商品その他に求め、あらゆる欲求全般のために活動するのではなく、唯一固有価値を創り満喫するために心身が動かなくなるまで活動し、「意欲・感動・希望」の脳内メカニズムにより心身が自ずと長持ちすることが明らかにされて来た。それは各人のもつ宗教観をも変化させ、旧来宗教団体教義が問い直されつつある社会現象にも至っている。
医学的に
「意欲・感動・希望」の固有価値商品3要件ごとに説明すると、
☆ 意欲 =脊椎動物は総て意欲をもっている。その根源の例を挙げれば、血糖値が下がれば食欲が生まれ、血中ナトリウム(Na)が増加すれば水が欲しくなる、といった類いのものである。
☆ 感動 =人間はドーパミンの作用により、いわゆる大括りの快感を物理的に自覚・感じるのである。また、ノルアドレナリンの増加は脳内トップダウン思考や集中思考体調を促進させる。半面そのノルアドレナリン抑制は頭脳の創造的イノベーション作用に効果する。なお、覚せい剤やアルコールは、脳の思考停止をもたらすが、創造性や芸術性には全く何の関係もない、単なる依存物質である。
☆ 希望 =人が希望を持つということは、脳医学的にはおよその段階ではあるが、脳の左右の前頭葉部分の血流が促進される場合に希望が湧いて来る、左右が重要で、そのことが証明されている。
現在ここまで脳の作用について、最新の研究が進んでいる。そもそも、世間でよく話題とされる知能指数というものは、19世紀に発案されたものでしかない。その時の知能テストに対する環境や自覚気如何で、平均値を100とする上下20の、40点は誤差の範囲として判断される精度である。発案者によると、80点以上かそれとも未満かの判断でしかないとされている。それが現代では、ガードナーの「多重知能」(1985年)、言語、論理、数学、音楽、身体運動感覚、空間、人間関係の7つの能力が重なり合っているとされているのである。このガードナー自身も、さらに多くの能力(例えば、霊感的)を著して(1999年)いる。
注)「脳は創造する-そのメカニズムと育成法-」
新風書房:ケネス・エム・ハイルマン(2013年8月30日)

必ずしも通貨のみによって流通・交通・航路を行うわけではない。
そのときが、この固有価値が商品となる場合である。「意欲・感動・希望」の一体化した商品価値の3要件こそが固有価値を含む商品にほかならない。
とりわけ、「意欲・感動・希望」のなかでも、あえて「希望」の分野だけを取り出してみると、人間の体内物質によって反応するのではなく脳の前頭葉の働きが加わることによって形成されている。すなわち体内物質や薬物ではなく、人類が育んで来た「文化そのものによる価値」の形成がなされていることの裏付である。それが個人や集団の文化となって、文化資本として蓄積されることによって、通貨には置き換えられない固有価値の蓄積・創造生産が促進され、そのことによって、さらに経済活動の中での「経済の豊かさ」が形成されているのである。
それは、流通・交通・航路の過程において、その固有価値は商品を観た利用者に「足を止めてもらう程度の水準」を保っていなければならない。実際に計測され得る「経済の豊かさ」の尺度は、この「足を止めてもらう程度の水準」からが、第一歩は始まるのである。それは、いわゆる近代マーケティング手法の根本的な前提条件であり、これが無視されている市場(実態は市場とは言えない空間)では、経済外的強制を横行優先させるがために、労働者の職業能力劣化、市場流通量激減、不採算価格システムに陥っている。
「個人と集団の中に躍動と共感を生む(芸術性)行為」は固有価値が商品として流通・交通・航路していることの、人間関係における現象としての現われである。人間関係があってから、「個人と集団の中に躍動と共感を生む(芸術性)行為」が生まれるのではない、小売り販売の未熟者の陥る過ちである。ところが、芸術に名を借りた学芸会や品評会であれば流通・交通・航路が短絡的人間関係に左右されるばかりか、これに対して商品価格の「値がつく」わけがないのである。例えば、日本のクラシック音楽界は学芸会や品評会と言われる事例が圧倒的であり、アメリカの場合はそれを克服したとされている。
注)手法や装置ではなく、マーケティングの兆しの発見
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/159
ヨーロッパも克服しつつある。
注)http://www.youtube.com/watch?v=xlODtMtTGOk
これら音楽界についての事例研究は、音楽業界の多くの方からインタビューした内容の、彼らの中で前向きな人物の代弁を筆者が行っているにすぎない。これに対して、地場産業や地域におけるヒット商品は、都市部や農村部の如何を問わず、流通・交通・航路している事例ばかりである。

「経済の成長」は、等価交換物としての通貨だけで計測される。
しかしながら、確かに計測され経済成長したとしても、同時に豊かさが保障されるわけではない。通貨という等価交換物の尺度は意欲と感動の2つの部分に限られている。「意欲・感動・希望」が一体化することによって生まれる「経済の豊かさ」は、今日までそれが数量に置き換えられて計測されたことはない。だが、数量計測出来ないからといって計測自体を拒絶(計測自体を批判する論理)する哲学や宗教団体概念も存在するが非科学そのものである。計測出来ないながらも「経済の豊かさ」自体を、通常の哲学や宗教観では価値として、通常の人間は認知している事実は存在している。そして、いずれは法則性を研究する学問として成り立つものである。
身近な医学話をすれば、LDLコレステロール値が低すぎるのは、すでに肝臓病になっていると診なければならず、飽和脂肪酸の摂取と治療が必要となる。ところが、数字と循環器疾患種類ばかりをデータ追跡するから、「コレステロールを食べなさい」とのマスコミ記事がたびたび出てしまうのである。医師の中にも、未だ「コレステロールを食べなさい」と話す者もいるそうである。寄せ集め観察と生半可な屁理屈のごった混ぜ、すなわち知識偏重になると、そのように解釈するものである。
また、確かにそれは公共事業その他にあっては、価値の計測はしていないものの固有価値が、社会通念として、「ぼんやり」認められているも場合も多い。ただし、その固有価値の合理一貫性を証明したところで、事実一致性を通貨によって計測しようとするものだから、固有価値の要件である「意欲・感動・希望」の一体化した価値の概念とは、証明手法(さらには存在有無と通貨置換では判定基準が違う)の選択間違いから、計測手段と方向の技法での対立(論理矛盾)をせざるを得ないだけである。合理一貫性と事実一致性で固有価値の有無を判定することと、事実一致性を通貨による計測ができたことでの存在量を判定しようとすることとは別の立証課題である。まして通貨による計測不能だからと言って存在を否定する論理は詭弁にすぎない。また、その対立(論理矛盾)を政治力や世間体の経済外的強制でもって、それを地場産業や地域住民に無理強いしようとする着想と曖昧表現が原因して、「経済の豊かさ」を幻想と錯覚し、それにまつわる抵抗運動の発生に至るのである。まして合理一貫性とは無縁な曖昧&権力依存症の論理のゆえに、ここでも寄せ集め観察と生半可な屁理屈のごった混ぜが行われている。

そもそも公共事業その他は、良心の自由を柱に成り立つ
議論を踏まえての、人類の「夢と希望」を促進させるための文化資本として扱われる必要がある。通貨に置き換えた予算措置を用いて、その免罪性を議会若しくは人頭数に求めてきた経済論理は、いまや世界経済を破たんに導いた手法の弁解弁明に利用されている。その経済理論(スラッファの経済理論を悪用)は、第2次世界大戦直後に、ソ連の官僚たちが真っ先に導入した。日本の官僚たち、総理大臣となった官僚もなおさら、この計画経済思考を高度経済成長政策にはめ込んだ。
加えて国民の自律意識が低いことを悪用し、経済が好循環しないばかりか危機を回避出来ない必要悪な対策として、隷属的消費者の増大・再生産が目的化されてしまえば、隷属的消費者の「意欲・感動」の欲望は(脳の作用で説明したように)コントロールされてしまう。それは、「紛争招来と人間抹殺」による解決の罪を招かざるを得ず、公共事業の空回りは著しくなり、紛争解決社会コストは厖大となる。それは多くの人が、うまく説明をできないけれど、肌身で感じていることである。またそれは、このメルマガの冒頭で述べたような、第2次世界大戦の教訓である、日本の戦中はドイツよりも酷かった。
解決策は、公共事業・施策の「視点の変更」だけでよい。
なけなしの公共事業に、今のような群がる隷属的事業者が寄りつくことも防げる。「意欲・感動・希望」の一体化した商品価値の3要件の固有価値の生産を促進する、公共投資の視点で良いのである。この3要件を尺度にすれば、「寄せ集め観察と生半可な屁理屈のごった混ぜ」であることを明確にさせることが出来る。先ずは、将来破綻するとわかっている方針は止めることである。止めた上で「夢と希望」が促進されることが「良心の自由」といった人間個々人の原動力を動かすこととなるのである。それは、EUの理念としても実証されている。

現代日本女性への隷属的抑圧的社会システム
における結婚や家族制度は、「心を尽くし、精神(気持ち)を尽くす」といった「良心の自由」概念との矛盾が限度に達しており、それが文化転換→経済発展→自由平等の社会共同体の妨げになっていることは、あらためて認識若しくは社会システムを問い直す必要がある。それは、個別企業の市場や、公共施策の空回りの現象には明確に現れている。それが判らないのは、説明する技法は必要無いけれど、社会生活で最も必要とされる洞察能力が似非秀才だからである、もっとも秀才とは洞察力は劣化した有能者との学説もあるが…。ことに、女性が肌身で感じ取っている事実すらも解からないのである、鈍感な女性が故に中途半端な管理職になれるとの説もあり…。
ただここで、隷属的抑圧的社会システムを克服し得る手段は、事態を認識する度合いでもなければ社会システム変革の学習でもない。解決策の一例をあげれば、様々な職業資格や能力検定を認定するカリキュラムの中に、個人事業や組織運営の「経営管理の基本課目」を必須とすることで、労働における自己の自律を促す経済施策である。カリキュラム例を挙げれば「契約とは申し込みと承諾の意思の両者の一致である」とか、「所得税・社会保障の仕組み」とか、「職場会合の方法」とか、「事業融資の仕組みと種類」などである。隷属的抑圧的社会システムから脱出するには、自己を見つめ自律するための「術(すべ)」が具体的克服には必要なのである。ただそれを成す原動力も、「意欲・感動・希望」が一体化した固有価値を個人と集団の中に躍動と共感を生む(芸術性)行為として、繰り返すが感動的な嬉しい経験により頭脳に蓄積される変化として、提供される場合にあってのみ、存在するのである。

実際に「経済の豊かさ」を創造生産している地場産業・新商品開発や地域
の事例を順次検討してみた場合、「議論を後回しにして、投下通貨資本を用いずに、文化資本の投下」でもって実践し、実践データでもって反省し、この実践と反省を繰り返す中で初めて成功している事例ばかりである。それは、都市部においても農村部においても同様であり、ICT技術によって益々同様化し農村と都市の格差は縮小している。
失敗事例の現象面で注目されることは、
議論ばかりして文化資本投下を先延ばしにしている実態、投資通貨資本に惑わされ不良債権を最終に抱える実態や予見不足、創造的生産を個人と集団の中に躍動と共感を生む(芸術性)行為として行わなかった実態とかの、失敗パターンが主要なものである。なお、経済成長を追求する計測方法を、唯一「名目通貨量」に頼っている人たち(行政関係者の予算措置)が少なくないが、その方法によって、「経済的豊かさ」の実測が曖昧にされるとか、隷属的消費者の増大・再生産が実態としてあげくに目的化され促進(公共事業の外注による官製貧困化現象)されてしまっている。


§頭脳労働のメカニズムの解明(再録)
1.新商品の開発とか、芸術的商品提供とか、複雑状況下での人心をまとめるとか、およそこういった作業が頭脳労働と呼ばれているのである。机に向かってパソコンを動かすなどは、あるいは基準に基づいて書面・文書を作成するといったものは、頭脳労働ではなく、「脳ミソ肉体労働」にすぎない。
(創造性(芸術性)の育成と鍛錬の資料)
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/246

2.その頭脳労働と言われるものの、プロセスを順次説明して行くと
(1) 過去の記憶は、インテリジェンス、文化の発展・変遷の蓄積作業
(2) ある程度の蓄積のもとに、目前の事実関係(事実の羅列ではない)の掌握
(3) この過去蓄積と目前事実関係との結合connect作業(実存哲学分野では時空間を飛ぶという)
(4) とりわけ時間や時期を重要視するギリシャ的哲学発想の克服
(5) この克服訓練ができれば、結合によりイメージ(想像)の作業が容易になる
(6) イメージができれば、合理一貫性でもってクリエイト(創造)が出来る
(7) 実験を積み重ね、事実一致性でもってマニュアル的に現物が完成する
(8) 現物となれば、製造やサービスにかかる実行技術で効率を引き上げ量産できる、初めてノルアドレナリン物質の効果が認められる
 (参考)実存思想論集XXVIII『労働と実存』(2013年6月25日、理想社)

3.こういった頭脳労働のプロセスのみをもって、すなわち、このプロセスをたどっただけで出来上がった商品は、この論理構成だけで固有価値を含めている商品であることの証明には至らない。供給される側にとって、「個人と集団の中に躍動と共感を生む(芸術性)行為」となって、初めて受容されるところの証明がないからである。言い方を変えれば、供給される個々人の人生にとって、「希望」を与えられる商品にまで高まっているかどうかである。まして、日本の経済活動外領域で幻想流行しているような、前項(7)番目からスタートする「イノベーション?」もどきでは成功しないのは当然のことといえる。現在の多くの開発者の悩みは、こういった頭脳労働のプロセス並びに、初めて商品が利用される証明過程についての認識のないところに原因がある。

4.そこで、この実証実験を実際にしてみた。すなわち、「人々が継続的に殺到する商品は、『意欲・感動・希望』の3要件がセットでそろっている」ように、どのような労働過程を踏めばよいかとの疑問点が持ちあがっている。ある意味この実験は、世の中で専門家と言われる人が、何故か今ひとつのところで成功達成が出来ない原因を追求することに、逆説的に集中している。恐らく彼らには、次のような到達点に至っている人は少なくないと考えられる。それは、「売れない商品は提供する側の「意欲」にすぎず、一発物は、『意欲・感動』に留まって肝心の『希望』の要素が商品に含まれていない」といった到達点だ。ところが、この原稿を書き上げる直前にインタビューした関西の某音楽家は、多くの部分で論証は別として到達していた、課題は「音楽嫌いの人に説明する手法」が残っているだけであった。


§固有価値を生む労働の職業能力を育むための実験
この音楽会(実験)は参加した人みんなが楽しむためのものが第一義であって、たまたま実証実験として役立ったものである。それが可能となった最大の条件は、企画立案の中心となったプロデューサーが音楽家ではなかったことにある。その実験とは、2014年3月4日夜の「ジョイフル音楽会」開催における、商品開発ノウハウ蓄積である。また、実験となりえたのは理論に基づいて予め立てた計画を実行し、数値は無理としても実践を計測したからである。
http://www.soumubu.jp/image/20140304joyful.jpg
賃金価格は、その人物の持つ固有価値労働が、単位労働時間に投入され、固有価値商品に結果する度合いによって、その水準が向上する。その論証もなされている職業労働は、有能な経営管理者、科学技術者、臨床医師、芸術家、プロスポーツ、商社商人(オーガナイザー)といったような人たちであり、この職業に就いて継続している人たちは、そのすべてが固有価値商品に水準の高い結果を出している。資格や立場あるいは専門家の名乗りを上げるだけでは、全くもって結果は出ない。
日本では音楽の産業化・商品化がきわめて遅れ(感情的に商業化を嫌う人も多い)、そこに携わる人は他に比べ貧困化の極みである。その貧困化は経済的にも哲学的にも社会的にものである。他産業に比べて基本的技能(楽器演奏、歌唱、価格交渉)の教育練習構造が非常に未熟で、決して芸術であるからといっても、日本国内だけ未熟さが許されるものではない。音楽業界は通貨資金力が高まれば暴力団が間に介入しやすい業界でもある。そこで筆者は、この分野での固有価値商品の開発(音楽練習→演奏歌唱加工→「場」の設置・流通・航路)を研究すれば、他産業への波及容易な開発内容が固まると判断したのである。音楽はおよそ、「能動的で知的」部分と、「受動的感情的」部分の2つを含むが、そのバランス論議はさておいて、いずれにしても諸外国のように産業として日本では成り立っていないとされる。音楽評論家の中には、「国内は二流しか残っていない!」と揶揄されるほどに、楽器演奏、歌唱の狭い技能(技術ではない)範囲に落ち込んでいる労働者が多数存在することは否めない。
実験の過程は、「個人と集団の中に躍動と共感を生む(芸術性)行為」を理論的に整備して、出演者の既存能力範囲内での提供を受けて、頭脳労働のメカニズムにのっとって音楽会全体と各部分(楽曲選曲や間合い設定)にかかわる企画立案、そしてテーマ設定(今回は、ファンタスティック・ストーリー)である。あえてプロデュースには音楽関係者やイベント関係者を外して、筆者自身も提供を受ける側の要望をもってしてプロデュースを行ったのである。結果、楽器演奏者、歌唱者その他の、「仕入れ労働→加工労働→流通・航路労働」の3方面を一体として、実験は大成功を収めたものである。前座から始まり、21時の終演をフィナーレで締めくくっても、帰宅する人がなく、用意しなかったアンコールと出演者の感謝のあいさつで、ようやく終了することとなった。これにはプロデュース関係者も驚き、筆者も長い経験の中では「中締め」で全員いなくなる会合とか、終了と同時にそそくさと帰る人たちのイメージは開催前から不安はなかったものの、現状の日本では理論的論理的に実践するだけで手ごたえなることを確信した。


§実証=職業能力向上の「練習」、その方法の主旨
は次の通りである。音楽に興味のない方には、他の芸術や芸能に置き換えることができる。

1.質の高い練習方法は、正しい指導とフィードバックに集中する。
a.フィードバックとは、手本や手順の通りに行っても成功し得ない作業に必要な練習方法である。
b.フィードバックに関係する知識が整理されていない場合は、学ぶ行為はトレーナーの前だけでトレーニングすることの原則を実証したことである。
c.手順書(楽譜)があるからと言って、その手順書だけで練習してしまうと、自己流の質の低い練習となり結果は最悪である。
d.提供を受ける側の要望が解らないままに商品を提供して、プロはあげく押し付けようとすることになる。ここでいう、「正しい指導」というものは、提供される側の要望を叶えることに焦点を合わせた練習するというだけの簡単な原則であることも実証できた。
e.そして仕上げは、提供者の能力を見せ付けないことで、提供される側と一体感を作り上げる練習やフィードバックである。
f.きわめて基本的初歩的なフィードバック練習が欠落しているために、労働能力向上の頭打ちの原因となっている場合が多い。
g.それは、品物の利便性と品質が顧客ニーズに合致していることを説明する能力がないから、商品に需要がないと錯覚している事例が、誤った指導と議論に終始した結果として現われていた。
h.さまざまな職業能力評価も点数が高くても、コンクールに優勝していたとしても、フィードバック練習を受け入れない有能者は、音楽業界ではなくとも採用してはいけない。同僚がフィードバック練習をしなくなるばかりか、「過去の有能さ」にしがみついて固有価値商品を洗練させて行く方向の足を引っぱる者となることも実証した。
i.音楽業界外でも、例えば医療機関や研究機関等の少なからず現われている現象も同様に、「価値商品を洗練させる」組織的取り組みの足を引っぱる者の存在である、有能事例に対して必ず陰で悪口が流れるところに世間体の特徴がある。

2.集中せずに漫然と練習すれば、仕事も漫然となる。
(1) 仕事とは、「仕入れ労働→加工労働→流通・航路労働」の3方面を一体として考えながら行うことが原則である。前にも述べた通り、その人物の持つ固有価値労働が単位労働時間に投入され、固有価値商品に結果する度合いによって、賃金価格水準が向上する。
(2) 言われた通りといった姿勢も含め、漫然と練習すれば、漫然と仕事をする練習をしていることになる。集中して短期間で練習効果を体得することで、高い水準の固有価値商品が提供できるように余裕を持つ必要がある。
(3) その余裕でもって、「仕入れ労働→加工労働→流通・航路労働」の3方面を一体として考えるのである。加えて音楽会で、ひとつの曲目を変更することは、曲目の順番のみならず、音楽会の準備からの全体と各部分にかかわる企画立案、そしてテーマ設定にかかわるとの実証であった。
(4) 瞬間的決断は、それまでに人類が体得した専門分野外の知識も含め、作りあげる音楽会の事実関係各所にきめ細かく結合connectさせる5次元の作業である。
(5) 集中思考した6秒間でアイディアが出なければ、次のチャンスを持つ。6秒間でヒラメキが無ければ、現状の能力や才能では無理であることを悟る必要があることも実証できた。
(6) 6秒間アイディアも、「仕入れ労働→加工労働→流通・航路労働」の3方面各々でのフィードバック練習によって、固有価値が無意識のうちに現れることとなる。
(7) 反面、6秒間を超えて出てくるものは、せいぜい過去の遺物であることも実証し、提供される側はそんな代物を要望しているわけではない。
(8) 個別企業その他の会議を例にとっても、漫然とした議論の場合は顧客ニーズからはかけ離れ、物欲通貨欲・権力欲・名誉欲のいずれかが組織として保たれるようになる。だから、顧客はその個別企業を敬遠するに至る。

3.フィードバック反復練習の成功率で習得の確認、計測、管理、項目設定を。
(A) フィードバックとは、手本や手順の通りに行っても成功し得ない作業に必要な練習方法である。顧客の苦情を聞くに始まり、顧客と共感を作り上げるフィードバック練習。クライアントが興味を示す概念を把握し説明するフィードバック練習。こういった職業能力も対象となっている。
(B) 参加聴衆に安心感を与えるリズム=販売やプレゼンテーションには不可欠なフィードバック練習。表面の広い人物と、奥の深い人物の存在の両方を意識して集団をまとめるフィードバック練習。そういったことも含めて、ヨーロッパその他の成功率の高い音楽教育はマンツーマンのフィードバック練習が基本の実証ができた。
(C) そして、音楽分野ではYouTubeなどのICT機器の発達により、コツをつかめればフィードバック練習が充実拡散できるようにもなってきた。リズムの種類、楽器の音色、ハーモニーの種類といった基本フィードバック練習は、フィードバックに関係する知識が整理されていることを条件に、YouTubeでのフィードバック練習が可能になりつつある。今回の音楽会では1928年に作曲され、現在日本では演奏できない曲をYouTubeでのフィードバック練習により再現し、現代風にアレンジすることに成功した。
(D) なお、フィードバック反復練習を組織的に推進するにあたっては、フィードバックの手本を示す場合に、必ず「中くらいの上」とすることが重要であり、アドバイスではなく、能力向上を相手方に要求しない限り身に付くことはないことも実証した。
(E) 顧客に参加してもらい、顧客の目の前でフィードバック反復練習を行い、顧客に反復練習についての評価をしてもらうといった方法がある。すなわち、音楽会開催の例えであれば、参加聴衆と演者に一体感が生まれることによって、参加聴衆が「のっている」結果が出せるか否かの判断基準で、フィードバック反復練習をした。

4.習熟段階に併せ水準をアップ、可能な限り複雑なものを正しく。
理論に基づく実践(実験)の結果をまとめるにあたって、初歩的に間違いやすい概念が、この「習熟段階と水準を複雑なものに引き上げる」手法である。それは、知識人の多くが社会人からは、敬遠される現象となって原因している。
【まず理論の紹介】
国内音楽家の多くは理論的思考に縁遠く、「実践こそがすべてである」といったような曖昧さで心裏の整理を行っているようだ。重要なポイントをフィードバック反復練習によって身に付けるという効率的方法が普及していない。実は上手と言われる演者は、自ら重要ポイントのフィードバック練習を発見し自覚している。それは、音楽のリズムは2拍子、3拍子、4拍子、6拍子、8拍子などは有名ではあるが、5拍子や7拍子も存在し、音階も半音ずつ差があるだけではないことについても。ことに自らに音楽的関心がないと思っている人たちには、規範的リズムや音階だけでは感覚的体験が生じない。歌詞も日常用語でなければ感覚的体験は生じない。それは、有名なアーティストのコンサートに祇園バヤシや民謡のテンポを含ませている実例の通りである。また、20世紀の音楽の発展は、「踊ることとの関連リズムが強い」ともいわれている。
ところが、旧態とした音楽専門学校出身者中には基礎規範的ではないリズムがとれないとか、ピアノ技法のみが身に付いて他の楽器の基本的演奏音発音の出来ないとか、12音階(ピアノのDo~Siの半音階)の半音途中の音が取れないとか、そういった人たちが少なくない、そのような教育しか受けていないのである。例えば今回の実践(実験)でも、1拍子1秒で4秒とはならず=5秒となる4拍子が西洋音楽には存在(日本民謡にも数多い)し、メトロノームで測定すれば5拍子となってしまうが、一般的に上手と言われる熟練者でも相当なフィードバック反復練習を必要とする。楽譜や歌詞の割り付けにこだわる古い練習方法のみを熱心に繰り返すほど、熟練者と評価されている人は多いのであるが、実は出来ない熟練者は多い。ピアノや歌でリズムをリードしても、一部の某音楽専門家の規定する「5拍子?」に、その某専門家の人たちは演奏・歌唱が伴わず、フィードバック反復練習を避けようとした。
【今回の実践(実験)の結果は】
a.音楽会のテーマ設定(今回は、ファンタスティック・ストーリー)に基づいて、「5拍子?」のフィードバック反復練習を何度やっても、数少ないリハーサル練習では元に戻っていることも実証された。あとで演者本人も気がついたことは、楽譜や歌詞の割り付けを自宅練習していたから4拍子に戻っていたのである。
b.高水準技能があってもテーマ設定に合わせるまでの技能レベルではなかった。むしろ、テーマ設定自体が参加聴衆に受け入れられるかどうかが当日の勝負であるにも関わらず。
c.そこでプロデュースする場合には、演奏・歌唱の間合いに入る数分間のフリータイムの活用と最終フィナーレでの感覚的体験に向けての10分間休憩をとり、当日の可能な限りの演奏・歌唱技能を最大発揮・活用することとした。
d.そして、その音楽会までの改善プロセスに、テーマ設定に向けた練習+フィードバック練習を優先することで、チームの協調性は高まることも実証できた。フィードバック反復練習は、その場でやり直しをする手法が決定的に重要であった。ロールプレイの練習とかリハーサル練習は、チームで仕事をする直前打ち合わせ程度の効果でしかなかった。
e.いわゆる原理に対する工学といった関係での音楽会の実証実践(実験)を行ったものである。すなわち、2重の意味でのフィードバック練習である。すなわち、1つ目が演奏・歌唱のフィードバック練習であり、2つ目が失敗すれば次回は無いプロデュースのフィードバック練習の2つが重なっていたのである。
f.固有価値商品を取り扱う場合、「商品価値の増殖」と「価値認識の一回性」に重要性が求められる。売りっぱなし商品であったり、当初から買替需要を目論むといった投下通貨資本の無駄をできる限り削いでいるからである。その固有価値が交換(流通・交通・航路)するには、「仕入労働→加工労働→流通・交通・航路労働」の三段階の各々で能力習熟段階に併せ水準をアップし可能な限り提供する毎の価値を高くする労働(職業能力)を必要とするのである。
g.このフィードバック反復練習といった労働能力育成が未熟であれば、商品の売り逃げとか詐欺まがいの付加価値を追い求めるようになって、個人も個別企業も破綻する。現在日本で会社経営の名を借りるも、実は公共事業や公的助成金に群がるとか、人心不安と通貨を交換する詐欺に人間の能力が費やされることの解消には、この「習熟段階と水準を複雑なものに引き上げる」手法(フィードバック練習など)こそが重要となってくる。

5.練習時間の80%を集中し、その人の得意な部分を桁外れに強くする。
幾人もの研究者が、得意な部分の才能を伸ばせば有効であることに気がついている。固有価値商品の「仕入労働→加工労働→流通・交通・航路労働」の三段階プロセスにおいては、なおさら得意な分野の才能を伸ばした人物の配置が重要となる。それは固有価値商品の要素それぞれに価値を分散凝縮させることによって、商品価値を高めるといった固有価値商品の形成発展過程でもある。
不得意な分野をもっている人物で、才能があると言われる人たちは、得意な分野が他人と比べたときにダントツに優れている。今回も、音楽会のテーマ設定(今回は、ファンタスティック・ストーリー)に基づいて、それぞれの得意な分野のダントツな部分を組み合わせてプロデュースするかに成功がかかっていたし、そのプロデューサーは音楽家とは無縁な人物が、「場」(会場の人と全体部分)の「意欲・感動・希望」を創りあげる企画にかけていた、それだけのことである。そういったことが今回実証された。
また不得意な部分を殊更練習させる教育手法は、その人物の才能をつぶしてしまう、その例は目白押し、日常茶飯事である。また成熟から衰退に至るコンビネーション組織においては、不得意な部分を殊更に指摘することで、「気弱な才能の持ち主」から順に排除して行く手段ともなっている。いかなる理想や幸せを追い求める大義を抱えていたとしても、衰退に至ったコンビネーション組織での有能者の排除手段は共通している。コンビネーション組織の着想では、あらゆるアドバイスが排除の論理に染まってしまうことも実証した。

6.本番で、複雑さや不確実性の困難に直面しても余裕がでる方法。
(1) フィードバック反復練習とは、「現実をあえて変形した設定で意図的に磨く」といった方法で行われる。
(2) 感動的体験が人を変えることや、「心や気持ち」が無心(無意識)の「間」の瞬間に伝わることが、音楽外の学問分野では定石となっている。例えば、「言葉を合わせ、ポーズをあわせ、呼吸を合わせる」といった結果の現象が実践され、その奥底の本質には演者と参加聴衆者のそれぞれ個人に、その瞬間以前に伝承蓄積体得された文化が結合connect?といった作業がなされ、これを5次元で(自覚を問わず)とらえているといったプロセスである。
(3) この、「言葉を合わせ、ポーズをあわせ、呼吸を合わせる」技法が、きわめて有効であることも実証した。音楽会では、予定曲目を案内し、参加型である音楽会形式も案内し、当日は歌詞カードや日本語意味を全曲分配り、音楽会にテーマが隠されていることを告げ、盛り上がって行くスタイルを案内し、楽屋話も含めオープンな運営を進めた。
(4) プロデュースの専門家からは、痛烈な批判を浴びた。が、「言葉を合わせ、ポーズをあわせ、呼吸を合わせる」ことに、この技法で成功した。日本においても、十分にこのような技法が通じることを、音楽会でも実証した。
(5) したがって、参加聴衆者がそれぞれ体験した具体的経験ではなく、参加聴衆者に蓄積された抽象化された文化が具体的に演じられるから、「現実をあえて変形した設定で意図的に磨く」といった学習をしている演者こそが、その時点での有効な職業能力を見つけやすいのである。
(6) 評価の高い演者・芸術家の多くは、芸術理論を簡易な言葉で表現できることはもちろんのこと哲学、社会学、宗教学、自然科学その他の知識を幅広く会得している人が多いのもそのためである。

7.即刻!能力や才能を低下させる、危険行動と領域
日本経済の職業能力の組織化と育成後進性の理由が、音楽会を理論に基づく実践(実験)として成功させるプロセスで、如実に(実証も含め)発見された。冷ややかな結論めいたことをいえば、職業に関する能力開発や能力向上を、全く楽しくない方法で行ない、嬉しくもない現実を見せられ、嬉しく感覚的な経験のないことから頭脳には蓄積されもしない。
こういった社会的システムによる能力後退が決定的になったのが今の日本の姿である。「人材の能力を超える事業の経営システムはない」と昔から言われる。だが職業能力の開発や向上は、個別企業単位でも創造できるという容易さの裏返し理論でもあるのだ。すなわち、地場産業や地域経済にあって、個別事業で職業能力向上する習慣を創れば良いからである。
実際に音楽会を理論に基づき実践してみて、大成功したけれども創造作業の過程で改めて気づき、その過程のその瞬間に筆者に蓄積された情報と組み合わせて、その場で即座に排除した【危険行動】の項目は次の通りである。
もちろんこれにより、音楽会当日までの改善プロセスに、練習とフィードバックを優先することで、チームの協調性は高まることにもなった。その途中で険悪な雰囲気となっても、危険高度排除することで大成功を収めれば、それまでの体験がすべて感動的体験に変化をして、その後の芸術性発揮に資することになり、才能の停滞や後退の瞬間を自覚したきっかけになったことを実証している。
【その場で即刻排除すべき危険行動】
イ)「演ずることを見せつけよう」と思ったときに才能は低下する危険。(思索・作為作戦、物量とモーメントの減少)
ロ)演者と参加聴衆者及び演者相互の間に、誠実な関係を保たないから共感もできない危険。(経験や理屈による抑圧・支配)
ハ)演者とチームに不安・恐怖とか危機感が入り入り込む危険。(直ちに芸術才能が低下。参加聴衆者は嫌悪)
ニ)意見を出すときに曖昧な表現ばかりで、具体的解決策を教えない危険。(情熱とか綺麗とか悲しいといった曖昧な表現等)
ホ)専門的な議論討論ばかりで時間を費やし、技能フィードバック練習をしようともしないで、議論の末は殻に閉じこもる危険。
ヘ)「いつでも、最もフィードバック練習を受け入れる人」を歓迎しない、そんな練習好きな人を軽いと妬むことも危険。
ト)フィードバック練習で、教える技能を分解して教えない危険、実演の作業時間を、ゆっくり進めることから始めないで教えてしまう危険。
チ)フィードバック反復練習での教える側に、「心と気持ち」のサウンドがセットされていない危険。
リ)練習やフィードバックの目標を、相手の「能力や才能」に置いて表現する危険、行動目標の設定をしない危険。(例:「今の能力では10年早い」といった表現行為)
ヌ)他人の能力を誉め><行動を誉めていない危険。行動承認(感謝)と称賛(誉める)が区別できない表現の危険。
ル)物事を行う効果や経費の計算もしていない結果、練習やフィードバックをしていない状態と同様の結果が出てしまう危険。

(参考文献)
「成功する練習の法則」著者:ダグ・レモフ
2013年6月21日:日本経済新聞出版社

「人間重視:固有価値商品の提供と事業運営」http://netclerk.net/WebShomotsu/
筆者:村岡利幸(2013年4月8日)